そば天使の独り言

NO.1 『扉を叩いた人』

ボクは天使。神様の『僕(しもべ)』。だから神に仕える『僕』はボクってわけさ。

ボクのお仕えしている神様って、全知全能の神ゼウスみたいに偉〜い神様ではなくて、専門職部門の食糧課・そば担当係長の神様だ。神様仲間には「そばの神さん」と呼ばれているよ。

 

ある日、ボクがお仕えする神様が「日本という国で、そばの調査して報告しなさい」と仰って、ボクを地上に降ろしたんだ。

いざ地上に降ろされても、ボクには背中に羽根があるし、服を着てないから、お尻丸見えでスッポンポン。

ちょっと恥ずかしいでしょ。それで、どこかの誰かに姿を借りなければと思ったの。

 

人に姿を借りるのは、神の世界でも知っていたよ。だって内緒でこっそりテレビを見ていたからね。

ウルトラマンはハヤタ。ウルトラセブンは諸星弾。彼らは宇宙人だから、少しカッコ良すぎて目立ちすぎだよね。

僕と同じ神様の使いの、天使仲間のコメットさんは、天使なのにミニスカート履いて、バトン振り廻したりしたからさ。

ちょっと目立ち過ぎて神様に怒られて、あの娘は失敗したね。

 

そこでボクは慎重に街中を探して、普通の若い男に姿を借りることにしたんだ。

なるべくおとなしくて地味な奴が良いと思ってさ。

しばらく街を探していたら、居ました、居ましたよ!ボケッとして色白で髪の毛が長くて、女の子みたいな軟弱な奴が。

こいつが丁度良いや。それでこの兄ちゃんに、姿を借りることにしました。

名前?そんなのどうでも良いよ。所詮、そこらの兄ちゃんなんだから。

でも、何でこの兄ちゃんを選んだのかって言うと、訳は単純。

何よりそばっぽいと思ったからなのさ。

何がそばっぽいかって?だってこいつ、顔に「そばかす」がいっぱいあったから。ただ、それだけですよ。

 

でもね、ボクが地上に降りて来てから、神の世界の時計ではほんの少しの時間でも、人間の時間では長い付き合いになったな。こいつの姿を借りて、早いものでもう45年。ボクら天使は、歳を取らないから良いけれど、この兄ちゃんは人間だから歳を取って、もうあと数年で古希だよ。兄ちゃんじゃなくて、もうじいちゃんだね。

神様に仰せ使った期限も、残りが少なくなって来た。

そろそろ、もっと若くて元気な代わりを見つけて、姿を借り直そうかと思案している所だけれどね。(これ、兄ちゃんには内緒にしておいてね、フフ)

それじゃ兄ちゃん、お前さんの口を借りてこれから『ボクの独り言』を皆さんに少しずつ聞いてもらうとしましょうか・・・

 

 

その日、私はやっと連絡を取ることのできた『そばの天使の代理人』と称する人物と、東京都下のM市にある古びた喫茶店で

待ち合わせをしていた。

約束の時間より5分早く現れた人物は、マスクで半分隠れた色白の顔に半白の髪、セーターとジーンズ姿の小柄な男だった。

顔のシミから察すると六十代半ばだろう。どこと無く、生気の薄い感じがするが、人当たりは良さそうな柔らかい印象がある。

自己紹介の後(もちろん彼は、自己紹介なしだが)、おもむろに持参したバックから数冊の本とクリアファイルを取り出し、

「天使さんから頼まれたことをお伝えする」とポツポツと話を始めた。

 

ここに、そば打ち教室を紹介した、数枚の黄ばんだ古い「切り抜き」があります。

裏面片隅に小さくメモ書きがあって、日付が書いてあります。

どうやら昭和48年の記事のようです。もう、50年以上前の記事です。

さて、昭和48年(1973年)は、どんな年だったのでしょう。 

この年に起こった事を覚えていますか?あなたは何歳でしたか?

まだ、生まれていなかったかも知れませんね。

では、少し振り返って見ることにしましょう。

この年、オイルショックによる物価急上昇で生活が大混乱。

何より困ったのが、トイレットペーパーが無くなった事。

主流の暖房器具だった石油ストーブの燃料も売ってもらえない状況。

ガソリンスタンドでは、売惜しみをする所が多く、車の運転にも支障を来しました。

身近な生活物資や、普通にあった物が、パニックで一時的に不足する事態。

不安な時代背景と合間って「1999年7月に地球は滅亡する」と五島勉氏著の「ノストラダムスの大予言」が、

戦後15冊目のミリオンセラーになりました。

そう、あの年は世の中が高度成長期から、不安の時代に大きく傾き揺れ動いた年でした。

 

こう言っても、自分の記憶としては、曖昧なものでしょう?

あなたもそうではないですか、まだ、若かったでしょうからね。

時代の記憶を蘇らせるのに、一番なのは何よりも流行歌。

その年に流行って歌っていた曲ですね。

五木ひろしがあの娘どこ行ったと「夜空」を歌い、この年末にレコード大賞。

「わたしの青い鳥」はクッククックで桜田淳子。

沢田研二ジュリーの今日まで二人は「危険なふたり」。

あ〜だから今夜だけはとチューリップ「心の旅」。

キャロルの「ファンキー・モンキー・ベイビー」がイカれてました。

思い出しましたか?流石に夜空は知らないですか。あぁ本当に若いのですね。

 

それでは、本題に入りましょう。

 

その年、『上野・東天紅』にて『東天紅料理学苑』が創設され、その一講座として開催されたのが『日本そば大学』です。

 

ここに、プロだけで無く一般人の人達にも、「そば打ち」に挑める「」を作った人が存在しました。

ベールを剥ぎ取り「そば打ちを教えろ」と扉を叩いた人物が居たのです。いや、その入り口の扉を作った人と言えるかもしれません。

その人の名は、東天紅料理学苑の主幹『多田鉄之助』氏

この方は、時事新報社を経て、昭和初期の食通で食味評論家として名を馳せた、今で言うところの 「特級グルメ」です。 

「食べある記」(昭和8年刊行)を発行するなど、当時の食情報発信の大家です。戦後も様々な料理教室を主催したり、

料理テレビ番組の魁として、また当時の最大の人気雑誌である主婦の友にも寄稿欄を持っていました。

時流を掴むことも上手く、戦前の「食べある記」には、飲食店や食品会社の広告が沢山出ており、商才にも長けた方だったようです。

そばに関する本も、何冊か書かれています。

この頃はまだ、『そば打ちを教える』という『概念』がなく、そば打ちは店の修業を経て習得するものと考えられていた時代。

ですから、そば打ち自体がまだまだ、秘密のベールに包まれていた訳です。

言い方を変えれば、「そば打ち=そば屋になる」程の、決意がなければ中々踏み込めない世界だったのです。

当時、この講座を受講する人は、手打ちのそば屋をやりたい人か、そば店を経営しているが手打ちにすることで、

自店のグレードを上げたいと思っている、いわゆる商売に絡む動機の人の参加が多く、趣味として既にそば打ちをしている人はほぼ居なかったようです。

ただ、この時代にもそば作りに興味があり、自分で打ってみたいと思っていた人々は、少なからずは居たらしく、主婦の参加や、珍しかったらしいのですが若い女性も来ていたと、当時を知る方から聞きました。このことを教えてくださった方の妹さんが、この講座の第二回目を受講されたそうです。後に一大そば打ちブーム時代の礎を築く、T氏と同期だったとのことです。

そしてこのT氏も、当時まだサラリーマン生活を送っていたそうですから、そば打ちに興味がある志願者は潜在的に、

多数居たことと思われます。

この教室は、好評で毎回30人ほどの受講生が居たらしく、わずか一年間の間に何と300人近くの人が受講しました。

その時点では、あくまで受講者でしたが、その中から後に名の出る手打ちそば店の主人が数多く輩出したのです。

述べ10回開催された講座でしたが、講師の健康上の理由等で一旦の中断を余儀なくされました。

講習のレベルについては、今となっては正確な内容は把握できませんが、最初はそば粉と小麦粉を5対5の同割から始めていたようで、玉は200gだったと聞き及んでいます。

とにかく、現在のようにそば打ちをして見たいと思えば、様々な入り口が存在している時代とは、大きく異なっていたのは事実です。何しろ、そば打ちの入り口が閉ざされていたと言うより、入り口その物が無かったのですから。

そこに、扉を立て入り口を作ったこの多田鉄之助氏の功績は、あまり知られていないのですが、とても大きかったのです。

こうしてそば打ちの入り口や扉は次第に開かれて行き、昭和48年の当時を思えば数多なる飛躍を遂げたのです。

さて、叩かれたその扉の向こうに居た人達の話や、その後のこの教室のことも、まだまだ、話は続くのですけれど、

今回が最初のせいか、少し疲れてしまいました。

その話は、また次回にお話しすると致しましょう。

次の約束を取り付けた私は、続きが聞けることに取り敢えず安堵した。

そして、席を立とうとした代理人に、

「せめてお名前とどちらに住んで居られるのかを教えて頂けますか?」

と、尋ねた。

「そうですね、大変失礼致しました、私は、南アルプス市に住んで居ります、山ノ上拝児と申します」

代理人は一礼してから踵を返すように、店を出て行った。


*引用記事・文献

 旭屋出版  「月刊 近代食堂」

丸ノ内出版 「大東京うまいもの 食べある記」白木正光編

現代思潮社 「蕎麦萬筆」多田鉄之助

旺文社   「そば通ものしり読本」多田鉄之助

徳間書店  「味の日本史」多田鉄之助

コメントを残す